延暦7年(785年)、最澄によって薬師堂、文殊堂、経蔵を建立し一乗止観院と名付けた寺院(通称・比叡山寺)を開創したのが始まりだそうです、
延暦23年(804年)最澄は還学生(短期留学生)として唐に渡り、唐の霊山・天台山で天台数学を学び、延暦24年(805年)帰国した最澄は天台宗を開きました。
ですが、最澄の説く天台宗の思想は、「一向大乗」という「全ての人が菩薩で仏になれる」というものでした。奈良の旧仏教の思想とは相容れず、非常に激しい反発を受けます。
当時、僧になるには国家の公認が必要でした。国家公認の儀式を行う「戒壇」は日本に3か所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野国・薬師寺)しかありませんでした。そのため最澄は、天台宗の思想で教えを広める僧を、比叡山で育てるのが念願だった為、奈良の旧仏教から独立し、比叡山に独自の戒壇「大乗戒壇」の設立を訴え続けました。
しかし、大乗戒壇が許可されたのは弘仁13年(822年)の最澄の死後7日目のことでした。ですがこれが重要な切っ掛けとなり、比叡山寺は日本仏教の中心的地位になっていきます。弘仁14年(823年)には「延暦寺」の勅額を賜り、比叡山延暦寺と寺名を改めました。
最澄の死後、延暦寺は多くの名僧を輩出し密教を広めていきます。しかし、唐に留学した最澄の弟子の円仁と円珍の派閥が激しく対立し、円仁派は円珍派の堂舎を打ち壊し、円珍派の僧約1000人を追放してしまいます。
追放された円珍派の僧は
園城寺に入り、独立しました。以降、延暦寺と園城寺は抗争が激化し、武装した僧兵が生まれました。
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、朝廷でさえ制御できなくなって、独立国のような状態になりました。
鎌倉時代には武家との衝突もあり、六代将軍の足利義教は延暦寺を制圧しようとしましたが失敗。しかし謀略により有力僧を誘い出し斬首したことで、絶望した僧たちが根本中堂に火を放ち集団自殺し、本尊などほぼ全てが焼失したそうです。
その後も、復興しては武家との衝突で焼失を繰り返し、元亀2年(1571年)には織田信長による焼き討ちで、僧侶・学僧だけでなく女子供の首をことごとく刎ねた事件は有名です。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が打ち取られると、尊朝法親王により再興が始められ、天正12年(1584年)には豊臣秀吉により復興の許可がおりました。
寛永19年(1642年)には徳川家光によって、本格的な根本中堂の再建されました。
明治時代に入ると、神仏分離令で鎮守社だった日吉大社が独立、境内にあった仏像・仏具を全て処分し仏教色を排除しました。この過激な行動は、廃仏毀釈になって全国に波及していくことになります。
昭和31年(1956年)には寺務所受付の男による放火で大講堂から出火、鐘台に類火し、周りの堂舎が全焼、仏像21体も焼失しました。
平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に認定されました。
平成21年(2009年)、最澄と空海の対立から真言宗と対立していたがが、
高野山金剛峯寺で行われた「弘法大師降誕会」で、天台宗の半田座主と高野山真言宗の松永座主のよる、両宗派開宗以来1200年間で初めての公式和解を果たしました。
延暦寺は根本中堂や大講堂がある延暦寺発祥の地である東塔エリアと、円澄によって開かれた釈迦堂や最澄の御廟所がある西塔エリア、円仁によって開かれたおみくじ発祥の地「元三師堂」がある横川エリアに分かれていて、各エリアにはシャトルバスが出ています。
西国三十三か所巡礼の番外札所の御朱印は東塔エリアの根本中堂でいただけます。
国宝の根本中堂では御本尊の前にある1200年灯り続けている「不滅の法灯」が安置されています。
各エリアの展望台からは琵琶湖を一望できる絶景が見ることができます。
宗派:天台宗 総本山
御本尊:薬師如来
ご詠歌:明きらく 後の佛の 後世までも 深利伝へよ 法のともしび
所在地:〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
拝観時間:9:00~16:00(東塔エリア)
9:30~16:00(西塔・横川エリア)
入山料:各エリア共通券 大人1000円 中高生600円 小学生300円
駐車場:あり
公式ホームページ:
https://www.hieizan.or.jp/
(2025年12月現在の情報)